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穆公(ぼくこう、紀元前?年 - 紀元前589年)は、衛の第23代君主。成公の子。 == 生涯 == 成公の子として生まれる。 成公35年(前600年)10月、成公が薨去したため、子の姫遫(以降は穆公と表記)が立って衛君となった。 穆公元年(前599年)4月、斉の崔杼(さいちょ)が国を追い出されて衛に亡命してきた。6月、晋・宋・衛・曹の4カ国連合軍は鄭を攻撃した。 穆公2年(前598年)10月、楚の荘王が陳を撃ち、簒奪者である夏徴舒を殺した。 穆公3年(前597年)春、楚の荘王が鄭の都城を包囲した。鄭が降伏すると楚はこれを許した。12月、晋・宋・衛・曹の要人たちが清丘(衛の地)で同盟を結んだ。このとき衛からは孔達が出席した。その後、宋はこの盟約をたてに陳を攻撃したが、衛の孔達が「陳の先君との約束がある」と、盟約を破って陳を助けてしまう。 穆公4年(前596年)冬、前年に孔達が盟約を破ったため、晋は衛に軍隊を差し向けた。これにより翌年(前595年)春、衛は孔達を処刑した。 穆公8年(前592年)6月、穆公は晋・曹・魯・邾の君主たちと断道(晋の地)で同盟を結んだ。 穆公11年(前589年)4月、衛の大夫である孫良夫は斉の侵攻を受けた魯を救うため、新築(衛の地)で斉軍と戦ったが大敗した。そこで6月、魯から援軍として季孫行父・臧孫許・叔孫僑如・公孫嬰斉らが派遣された。季孫行父らは晋の郤克・曹の公子首と合流して鞍(斉の地)で斉軍を大破し、魯が侵略された土地を取り返した。8月、穆侯が薨去し、子の姫臧が立って衛公(定公)となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「穆公 (衛)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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